木曜日, 5月 31, 2012

死ぬ時に残す言葉@「新編・風雪のビヴァーク」

知り合いのサイトに寄稿している記事。よろしければ。
「通勤の音楽2」
http://epstein-s.net/archives/7437

完全に「通勤」はどうでも良くなってきてるw
日付が2009年になっているのは、キヨシローが亡くなった年だからです。
運営者のこだわりなもんで。

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異動後に、扱う商材と仕事がかなり変わったので、
このところビジネス本(業界知識とか分析系のHow toとか)を
読まざるを得ない日々が続いてちょっとストレスだったんですが、
あんまりそればっかでも寂しいので、ちょっと浮気。

「新編・風雪のビヴァーク」
著/松濤 明



山の人には「え!読んでなかったの!?」と、
言われそうですが。結構ヤマ関係の本は読んでるつもり
だったんですが、見逃してました。


基本的には「山行記録」なので、ある程度
知っているルートや山域のほうが読んでて楽しい。

読者としては、松濤さんが北鎌で遭難したことは既に分かっているわけで、
その「最期の登攀」に向かって、どんな山行をしていったのかが興味あるところでした。

先鋭的な登山をする団体が、学生から社会人山岳会に移行する過程の中で、
また戦前戦後の混乱の中で、彼の「自分はなんのために登るのか」という価値観が
だんだん変わっていく様子がとても興味深いんだけど、やっぱりなんといっても
緊張感があるのは、ラストの北鎌の登攀。

今のように高性能な山道具がない中、
体が濡れ、コンロが壊れ、仲間(有元さん)が滑落し死を決意する。

そして、有名なこの遺書。

 全身硬ッテ力ナシ
 何トカ湯俣迄ト思フモ
 有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
 オカアサン
 アナタノヤサシサニ タダカンシャ
 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。
 何ノコーコウモ出来ズ 死ヌツミヲオユルシ下サイ
 ツヨク生キテ下サイ

 我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海二入リ、
 魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル
 個人ハカリノ姿 グルグルマワル



・・・・人間て、自分が「死ぬ」と分かった時に
こんな文章を書けるもんなの? と、素直に驚きました。

ラストの三行なんて、ちょっとオソロシイ。
「自分の死を(自分に)納得させたい」っていう解釈もできるけど、
それよりもたぶん、本当に“そう思ってるんだろうな”っていうのが
すごく感じられます。

個人的には、山で死ぬ人はそれがどんな理由であれ「遭難・失敗」なわけで、
決して賞賛するものではないと思ってはいるけど、
自分の命が尽きるときにこういう形でメッセージを残せるっていうのは
本当にすごい。それだけ、強い意志があって、ある意味での「完ぺき主義者」
な人だったんだろうな と。

私も「山で亡くなった人」の話は何度か聞いたし、
たまたまここ数年、身近に不幸が続いたので
なんとなくリアルに「死」に向き合うことは多いんだけど、
こんなふうに「だんだん死んで行く」という状況になったら、
私っていったい何を考えるだろう。。


まずは家族にメッセージ、それは書くだろうなー。

あとは、整理的なことを書くかも。
「引き出しのアレは処分してくれ」とかw

んー。あとは~・・・・

案外、ノートの隅に書くような
ショーモナイ落書きとかを書いてしまうかもしんない。
なんか私って、そういうことしそうな気がするw

でも、残された遺書を読むのは私ではなくて、「生きてる人」だから、
そういう人たちに残すものは「決死の遺言」ではなくて、
「ユル~いメッセージ」くらいのほうが、残されたほうは読んでて
気楽かもしれないね。「幸せに死ねたのかもしれないな」って思ってもらえるから。


まー間違いなく言えるのは、松濤明のような立派な遺書は
私には絶対書けないってことですなw 

よい本でした。

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