木曜日, 5月 27, 2010

「自分と同じ人」が どこかにいる。

先日営業課の人に、ある書類が
どうしても間に合わないと言われ
特別に早く対応してあげたら、
「頼めばやってもらえる」と学習されて、
またもギリギリで頼まれた・・・・  くそっ。

そこで一句。

 “3度目は あると思うな イレギュラー”

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さて。映画。

ふたりのベロニカ
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー

監督はポーランドの人ですが、
映画はフランスとの合作(1991年)です。

 同年同日に生まれた、フランスとポーランドの
 二人の「ベロニカ」。
 容姿・性格・才能までが酷似した二人のベロニカは、
 互いの存在を知らないで生きていますが、どこかで
 「もうひとりの自分」の存在を感じている。
 ある日、ポーランドのベロニカは、舞台上で死んでしまう。
 一方フランスのベロニカは、人形師の男に何故か惹かれ・・・


「自分に似た人は世界中に3人いて、
 その人に会うと死んでしまう」という
 ドッペルゲンガーの話があるけど、
 着想はその辺からなんではないかと。

事実、ポーランドのベロニカは
フランスのベロニカを目撃してしまって
(ただ相手側は気付いていない)、
その直後に突然死してしまうし。


二人の関係(互いは互いを知らないが、
その存在は、それぞれなんとなく感じている)とか、
そのあたりの神秘性は、フランスと言うか、
中央ヨーロッパ“らしさ”が溢れてます。

わりと極限まで説明を排除している映画なので、
難解といえば難解かなー。

でも、場面展開とか、音楽を効果的に使った
ベロニカの心の描写がとても美しいです。


恋愛とか人間関係において、
ヨーロッパは、日本人とあまりにも違うと
本当にいつも思います。

恋愛にも性にも奔放。
だけどすべてが自己責任。
彼らは自分の感情に対してとても正直。

・・・・「和を以って尊し成す」「以心伝心」という
日本の考え方は嫌いではないけれど、
結局、言いづらい事をオブラートに包んだり、
体裁だけを整えた言い方って、
後で人によって捉え方が違うと
TPOによってはそれが諍いのタネにもなるよね。


余談だけど・・・たとえば

「嫌いじゃない」とか、
「機会があれば」という言い方は、

日本ではよく使われるけど非常に曖昧で
言われた側は戸惑うことが多い。


私は、30代になってから思うところあって
できるだけこういう曖昧な表現を使わないように
意識しているけど、やってみて分かるのは、
そうすると、ダイレクトな表現をした事で傷付けた
相手にちゃんと謝るとか、自分のほうが間違っていた
という事に気付かされるとか、
ちゃんと「自分のケツを拭く」事を求められる機会が増えた。

本来の遠回りな言い方をしていれば、
本音を言えないフラストレーションがたまる代わりに、
人と衝突してイヤな思いをする事もないからね。


「自己主張」を、単なる「欧米的合理性」や
「自論の押し付け・我侭」として実行している人がわりといるけど、
本来「自己主張」というのは、

自分の発言と行動に責任を持ち、
場合によっては、素直に過ちを認めたり、
きちんと人に謝罪したりできる事

が前提なんだと思う。


「オイシイとこ取りの自己主張」
ではいけない事を、
ヨーロッパの映画は教えてくれます。

3 件のコメント:

旧ヤハギ さんのコメント...

これ 
そんな前なのか・・・・

大好きだけど
こんな深いこと考えないなー。

ただ単にわけわかんない映画がけっこう好きなんです。

つか
今の今まで
キシェロフスキ
だと思ってた凹

かつを さんのコメント...

あれ?
ヨヨさんもみえきちさんも大変なことになっちゃうあるよ。

ヨヨ さんのコメント...

> 今の今まで
> キシェロフスキ
> だと思ってた凹

ガイジンの名前は、
「どのカタカナ表記が正しい」ってのはないから、
キシェロフスキでもいんじゃん?


> ヨヨさんもみえきちさんも
> 大変なことになっちゃうあるよ。

わたしらはそこまで似てないぞ。
まー、親戚程度(笑)。