久々に献血したら、採血の看護士さん(おはさん)に
「まーぁ 立派な血管ねー」 と言われた。
・・・褒められたのか? 喜ぶべきなのか?
でもゼンゼン嬉しくないんですが。
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予告編に触発されて観に行ってきました。
『ペルシャ猫を誰も知らない』
監督:バフマン・ゴバディ
# 芸術表現の規制が強く、音楽や映画等に厳しい取締りがあるイラン。
# それでも若者達は、思い思いの音楽に傾倒し、地下や郊外の農場など、
# まさに“アンダーグラウンド”な場所で曲を奏でる・・・・
イランの映画です。
抽象的なところはなく、ストーリーはいたってシンプルなので見やすい。
いい映画だったよー。
表題の「ペルシャ猫」は、別に猫の出る映画なんじゃなくて、
イランの別名「ペルシャ」とかけたもの。
「猫」は抑圧されたイランの若者のメタファーなんだとか。
中東はインドを筆頭に映画大国が多いので、
(ハリウッドをもじって“ボリウッド”--インドの元首都名
「ボンベイ」から)なんて言うよね)
意図してなくても、中東映画を観に行く機会は結構あったりするよ。私はね。
まあイランのような、中東でも特に表現の規制が
厳しい国の映画は、あまり出会う機会がないけども。
音楽をテーマにした映画が好きなので、
結構観る事は多いです。
・・・なんだろ? 音楽とか絵画とかお芝居とか、
芸術って圧倒的に人を幸せにする力を持ってるからカナ。
今回の作品の主人公である、アシュカンとネガルのカップルも、
自分達の音楽を続けるために政府の目を逃れ、仲間を募り、
エネルギー溢れるたくさんの音楽を生み出していきます。
西洋的な音楽に傾倒していることがバレれば、
逮捕され、重い罰を受けかねない環境の中でも
彼らは音楽を辞めない。そして、インディロックを奏でる二人の他にも、
ヘビメタ、ファンク、ラップと、様々な音楽を志す仲間と出会ってゆく。
作中で流れる音楽の数々は、まさに「リアルなイラン」を映し出しています。
歌詞の規制はもちろん、女性ヴォーカルは単独では歌えず、
「女性は最低3人で、しかもバックコーラスでなくてはならない」なんてあたり、
本当にその規制の意味がわからん!
・・・主人公の二人は実際にミュージシャンで、
この映画の撮影が終了した4時間後には国外に逃亡、
現在はイギリスで音楽活動を続けているのだそうです。すごい~!
「台本のあるノンフィクション」みたいな感じなんだな。
人の「表現したい」という欲望は、
誰にも止める事はできない という事だね~。
前に、平田オリザ脚本のお芝居の中の
「伝えたい事はない。でも、表現したい事は無限にある」
という言葉がすごく響いたというのを書いたけど、
まさにそれを地でいく映画です。
彼らの音楽は、おおっぴらにライブを開いたりCDを販売したり
できる類のものではない。だから、人に聴いてもらえる機会は極端に低い・・・
にも関わらず、彼らの音楽への情熱は決して失せることがない。
・・・私自身、実際「表現する」事に関して渇望感があるからこそ、
仕事も編集職だし、こうやってブログ書いたりするわけだけど、
だからといって、「お金のため」「人に見てもらうため」
「自分を分かって欲しいがため」にやってるかと言われると・・・ちょっと違うんだよね。
ただただ、自分の中の「何か」を自分の好きな表現方法でアウトプットしたいだけ。
トイレと一緒で、溜まったものは出してかないと我慢できない(笑)。
だから、表現する。
その方法は、芸術や言葉だけではなくて、
人によっては仕事やスポーツの人もいるだろうし、何かの社会活動かもしれないし。
そしてそれはなんであれ、最終的に他人がそれを「どう感じるか」は
二次的なものなので、大事な事は「いかに自由な方法で吐き出せるか」
なのだと思う。
この「デトックス」ができない環境は、いわば共産主義・独裁政権みたいなもんで、
規定通りに生きてれば食うのに困る事はなくても、
人間としての「死」につなっがていくんだと思う。
「タレ流し」だと揶揄される事もあるし、
メディアの操作は実際今も粛々と行われてるんだろうけど・・・・
なんだかんだで、自分の方法で“表現”できる日本は、
今のところ幸せな国なんだろうな~。。
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